夜勤という仕事には、日中には味わえない静けさと、どこか異様な気配がつきまとう。
それは単なる“夜”という時間帯が持つ雰囲気のせいかもしれないし、
あるいは人の「無意識」がふと表に現れる瞬間が、深夜には多く潜んでいるからかもしれない。
あれは、私がまだ介護の現場に入りたてで、夜勤も3回目くらいのときのことだった。
その日は特に変わったこともなく、日中の業務も順調。夜勤の引き継ぎも問題なく終わり、
22時を過ぎる頃には、全ての入居者が無事に就寝された。施設全体が、まるで時間が止まったかのような静けさに包まれていた。
深夜2時。廊下の奥から
見回りまではまだ時間があり、私はひとまずデイルームで記録の整理をしていた。
淡い照明に照らされた室内は静まり返り、壁時計の秒針の音だけがカチカチと響く。
時刻は午前2時10分を回った頃。
その時――奥の廊下の方から、不意に音が聞こえた。

ガタン、ガタン……ガタン
どこか硬質で、引き出しや戸が開閉するような音。
だが、一定のリズムを持たず、間隔はバラバラ。
その断続的な響きに、私は一瞬耳を疑った。
この時間に音を立てる人などいない。全員、就寝中のはず。
テレビの音でも、機械音でもない。はっきりと、「人為的」な気配を感じる音だった。

音の正体を確かめに
私は静かに立ち上がり、音のする廊下へと足を向けた。
薄暗い廊下の照明がやけに頼りなく、足音さえも吸い込まれていくような感覚。
音のする方向は、南棟の個室エリア。その一番奥の部屋だった。
スライド式の木の扉をそっと開けると、薄明かりの中、ベッドの脇で何かが動いていた。
目を凝らすと、そこにはいつも穏やかな笑顔を見せてくれるおばあちゃんがいた。
しかし――その顔には一切の表情がなく、まるで人形のように無言で立っていた。
そして彼女は、タンスの引き出しを、ガタン、ガタンと開けては閉める動作を繰り返していたのだ。
無言で繰り返される動作
私は思わず「○○さん、大丈夫ですか?」と声をかけた。
だが返事はない。ただ、引き出しを開ける手を止めることなく、黙々と同じ動作を続ける。
まるで何かを探しているかのようにも見えたが、中には何も入っていない。
しかも、引き出しは一段だけを何度も開け閉めしているのだ。
数えてみれば、すでに十数回は繰り返していた。
「どうしたんですか?眠れないんですか?」
再度問いかけるが、彼女は私の存在すら見えていないかのように、視線は宙を泳いでいた。
その姿を見て、私は背中に冷たいものが走るのを感じた。

ただの“夜間せん妄”では片付けられない何か
介護現場では、「夜間せん妄(やかんせんもう)」という言葉がある。
高齢者が夜間に混乱し、幻視や異常行動を起こすことは少なくない。
それにしても、彼女はそれまで全く問題行動のない方だった。
私の声が届かないまま、彼女は引き出しをピタリと閉めた。
そして、急に私の方を向き、こう言った。
……あの子、まだ入ってないの
私は一瞬、意味が分からず立ち尽くした。
「あの子?」と尋ねようとしたとき、彼女はすっとベッドに戻り、何事もなかったかのように布団をかぶった。
私はそっと部屋の灯りを消し、扉を閉めた。
その後
翌朝、日勤の職員にそのことを伝えると、少し驚いた顔をしながら、こんな話をしてくれた。
「そのタンス、実は以前、娘さんの遺品を入れてたって聞いたことあります……。もう処分しちゃってるけどね。」
娘さん――もう何年も前に病気で亡くなられたという話を、私は初めて聞いた。
もしかすると、夜の静けさが、彼女の記憶の引き出しを開けたのだろうか。
あるいは――亡くなった娘さんが、一瞬、そこに“帰って”きたのだろうか。
📝あとがき
夜勤中の施設では、時間が止まったような空間に包まれる瞬間があります。
それは、介護士としての冷静さとは裏腹に、人間としての「感情」や「感覚」が強く揺さぶられる時間でもあります。
“科学”では説明がつかない“感覚”というものが、確かに存在する――
この「ガタン、ガタン」の音は、ただの夜間せん妄なのか、それとも別の何かだったのか。
答えは分かりません。
でも、きっと私はこの音を、一生忘れることはないと思います。