
深夜の静けさの中で
夜勤のシフトに入ると、介護士としての感覚が研ぎ澄まされる。利用者が眠っている時間帯こそ、少しの物音や異変にも敏感になるからだ。
その夜も、私はいつものように深夜の巡回に出ていた。時刻は午前2時過ぎ。
館内は静まり返り、薄明かりの廊下には自分の足音と、遠くの時計の針が時を刻む音だけが響く。
グループホームという特性上、居室はすべて個室。利用者たちは皆、それぞれの部屋で休んでいる。
私は一人、懐中電灯を手に、そっと足を進めていた。

突然の水音
その時だった。
「ジャーーーーッ」という水の音が突然、耳に飛び込んできた。
明らかに水道が勢いよく流れている音だ。
ぽたん、ぽたん……という水漏れのような音ではない。
全開の蛇口から流れ出る、強く途切れない水音だった。
一瞬、誰かが起きて水を使っているのかと思った。
だが、音の方向は、洗面所。居室内の洗面ではない、共有のスペースだ。
そんな時間に使う人がいるとは思えなかった。
私は足早に音の方へ向かった。夜勤者としての責任感と、わずかな不安が胸の中で膨らんでいた。
誰もいない洗面台と「異物」
洗面所に入ると、やはり水道の蛇口が全開になっていた。
水は勢いよくシンクに流れ、跳ねる音を響かせている。
しかし、そこには誰の姿もなかった。
照明は自動で点灯し、洗面所内はしっかりと明るい。
私はすぐに蛇口を閉めた。
その瞬間、ふと違和感を覚えた。シンクの端に何かがある。
――髪の毛。
それも、ただの数本ではない。
束になった黒い髪の毛が、濡れたシンクに貼り付くようにまとまっていたのだ。

誰の髪?
私は一瞬、息を呑んだ。
入居者のほとんどは高齢の女性だが、白髪か、髪を短くしている方が多い。
この髪は明らかに黒く、しかも長くはないが、若い人間のものに見えた。
何より、その時間に誰も起きていないことは、さっきの見回りで確認済みだった。
個室をそっと覗いても、どの方もぐっすりと眠っていた。
水が出しっぱなしになっていたことにも違和感があるが、
「髪の毛」がそこにあったことが、何よりも私の中で強く引っかかった。
誰かが起きて使ったのなら、必ず気づく。
音も足音も、照明の点灯も。
だが、私は誰の気配も感じなかった。
翌朝の確認と同僚の反応
翌朝、早番の同僚に念のため共有した。
「夜中に洗面所の水が出っぱなしになっててね、髪の毛の束もあったんよ」
しかし返ってきたのは、驚いたような反応だった。
「それ、初めて聞いた。今までそんな話、一度もなかったけど……」
掃除スタッフにも確認したが、髪の毛の束については心当たりがないとのこと。
結局、それが誰のものだったのかは分からなかった。

あとがき:介護現場に潜む“曖昧な領域”
この出来事を振り返るたび、私は考え込んでしまいます。
認知症の方の中には幻視を訴える方も少なくありません。
しかし、今回のように実際に“物”が残っていたケースは非常に稀です。
もしあの髪の毛が誰かのものだったとして――
ではその“誰か”は、誰だったのか。
誰にも気づかれずに洗面所を使い、水を出しっぱなしにして去った存在が、
本当に人間だったのかどうか、今でも分かりません。
介護の現場には「科学では説明しきれない瞬間」があります。
それを“気のせい”や“勘違い”と片付けるのは簡単ですが、
私はその曖昧さもまた、介護のリアルだと感じています。
私たち介護士は、身体的なケアだけでなく、
時には“目に見えない違和感”とも向き合っていかなくてはならないのかもしれません。