介護施設での夜勤は、日中とはまったく異なる時間が流れているように感じる。
館内が完全に静まり返り、わずかな物音や足音が、やけに大きく響く――
そんな環境の中で、時折、言葉では説明できない「何か」に出くわすことがある。
あれは、私が夜勤に慣れてきた頃の出来事だった。
夕食後のケアや口腔ケア、就寝介助なども無事終え、館内は静寂に包まれていた。
私は0時過ぎに3回目の見回りを終え、デイルームで記録整理をしていた。
巡回中、ふと聞こえたうめき声
深夜2時ごろ。4回目の巡回に出ようと廊下に出たときだった。
廊下の照明は常夜灯だけがぼんやり灯り、足元に長い影が伸びていた。
そのとき、聞こえてきた。
「たすけてくれ〜……」
「おかあちゃーん……たすけて……」
弱々しく、くぐもった声。男性の声だった。
一瞬、幻聴かとさえ思ったが、間を置かず、もう一度はっきりと聞こえた。
それは確かに、館内のどこかの部屋から発せられる「うめき声」だった。
私は背筋がぞわりとするのを感じながら、声の主を突き止めようと静かに歩を進めた。

声の主は……
声のする方向に向かいながら、入居者の名前が次々と思い浮かんだ。
あの部屋は、確か○○さんの個室だった。
彼は、認知症の症状はあるものの、普段は冗談を言うこともあり、
物静かで温和な方だった。
夜中に叫び声を上げるような人ではない。
私は恐る恐る扉をノックし、ゆっくりと引き戸を開けた。
部屋の中は暗く、寝具のシルエットだけがぼんやりと浮かんでいた。
「○○さん、大丈夫ですか?」
返事はなかったが、布団の中で誰かが小刻みに震えているのが見えた。
私は慌てて明かりをつけた。
天井を見つめる目
明かりの下、○○さんの顔が浮かび上がった。
驚くほど青ざめた顔。目を大きく見開いたまま、天井を見つめていた。
「○○さん、どうしました? どこか痛いですか?」
私はすぐにベッドの横にしゃがみ、顔をのぞきこんだ。
だが、その視線は私に向けられることなく、天井の一点をじっと見据えていた。
恐怖と混乱に満ちた目だった。
まるで、“見えてはいけないもの”を見てしまったような――そんな目。

「おかあちゃん……たすけて……」
再び、今度は涙混じりの声でつぶやかれた。
そこに“何か”がいたのか?
私は手を握り、「大丈夫ですよ、ここにいますからね」と声をかけた。
少しだけ表情が緩んだようにも見えた。
しかし、彼の目線は終始、私ではなく天井を見続けていた。
私も思わず、つられて天井を見上げた。
そこには何もなかった。
白い天井板、換気口、蛍光灯のカバー。
ただ、それだけだった。
――でも、確かに何か“気配”のようなものを感じた。
冷房は切れているはずなのに、空気が妙にひんやりと冷たく、
背筋にぞわりとしたものが走った。
私は自然と「ここ、寒いですね……」とつぶやいていた。
翌朝のこと
その夜はしばらく、○○さんのそばに付き添った。
彼はやがて落ち着き、静かに眠りについてくれた。
翌朝、日勤の看護師に昨夜のことを話すと、彼女はこう言った。
「あの方、最近“天井に影が見える”って言ってたんですよ。
でも夜中に叫んだりするのは、今回が初めてです」
偶然といえば、それまでかもしれない。
しかし私はあの夜、確かに“何か”がそこにいたような気がしてならなかった。
📝あとがき
夜勤中の介護施設では、現実と非現実の境界線があいまいになる瞬間がある。
それが認知症の影響なのか、それとも別の“何か”のせいなのか――
誰にも分からない。
ただ、あの「たすけてくれ〜」という叫びは、
たった一人の入居者の声であると同時に、
あの空間に漂う“見えない声”のようにも感じられた。
今でも時折、あの夜の廊下を歩くと、どこからともなく
「たすけて……」という声が聞こえてくるような気がしてしまう。